残酷な月

4月はあっという間に過ぎて行った。試験よりもレポート執筆のほうが向いていると思ってほとんどの科目をレポートによる評価のものにしたせいで、朝から晩までパソコンに向かう日々だった。気がつけば街を覆っていた雪は消えており、春が来ていた。

せめてもの気晴らしに、パソコンに向かう場所はあちこち変えていた。家と図書館に飽きたら街中にいくらでもある喫茶店を転々とする。この時期はどこでもパソコンに向き合う学生であふれている。さらに気分転換して、モントリオールから東に向かう夜行列車でもレポートを作成した。24時間弱の旅でハリファクスに着く。そこで数時間滞在し、すぐ折り返してまた24時間。往復ともゆったりとした一人掛けの座席を使えたのでよかった。電源もあるし、wifiが使える車両もあった。

モントリオールでの暮らしも9ヶ月が経過したところで、これまでに8人がはるばる訪ねてきてくれた。つい先週、両親もやってきた。これまで発見してきたこの街の良い所をさんざん案内したが、一月前まで雪が積もっていたとは思えないほど良い天気の中で山登りをしたりと、既に還暦を迎えた二人には過酷な行程だったかもしれない。

私たちでも気兼ねしすぎずに入れる老舗のビストロで親と道中最後の食事をした。仏語と英語がやかましく飛び交う席と席の間の狭い店で、いつものように日本語で親とあれこれ話した。父親は最近好調だという広島の球団の話を好み、母はただ息子たちが留学先で元気でいることが分かってよかったという話をした。しばらく離れて暮らしていたので会話のペースがうまく合わなかったが、ワインで皆の頭がゆるんだことにより不調和は解消されていった。最後に記念写真を店員にお願いして撮ってもらった。

ビストロの最寄り駅(Sherbrooke駅)まで両親を見送る途中、英語で議論するのはやっぱり難しくて、とうとう満足がいかないまま二学期が終ってしまったというような話を父にした。父は小学校のころ私がどのように国語の問題を解いていたかという思い出話をした。そうして駅に着き、武蔵小金井駅で別れるような感覚でお別れした。

駅から妻と歩いて家に帰る途中、リスがたくさん跳ね回っている公園を通りながら、両親との会話を反芻した。広島で生まれ育った私たちがモントリオールで会っても、話す内容、交わる感情は変わらない。でも彼らがわざわざここまで来てくれたという事実の後ろにある何かに思い当たり、身体の奥のほうが熱くなった。skypeでは伝えきれないものを受け取り、これからはもう少し頻繁に親に手紙を出そうと思った。家に帰る前に酔いは覚めていた。既に日は長くなっていて、午後九時でも薄明るいほどだった。