20代の最後に

2001年8月の誕生日前夜に書いた日記をウェブ上で探したが、どこにもアーカイブされていなかった。代わりに見つかったその頃の日記や掲示板を見返して、当時は発言がより過激だったんだなと感じた。20代の10年間は変わらないようでそれなりに変化のあった時期だった。記憶はあんまり当てにならないようだから、これからも折に触れて日々を記録していこうと思う。
職場の同僚に触発されたこともあり、昨年末から思い切ってドイツ、デンマークフィンランドスウェーデンノルウェーと立て続けに訪問した。おぼつかない英語でもそれなりになんとかなると分かったと同時に、おぼつかない英語しか使えないことが不満に思えてきた。一方で今年の夏は尾道、博多、久留米、広島(里帰り)、倉敷と短い夏休みを使って弾丸旅行をした。何度か行ったことのある街でも、同行者や目的意識の違いによって新しい発見がある。久留米の石橋美術館で見た高島野十郎展は良かった。客観的な目と内なる情熱が合わさった何十本もの蝋燭の絵。鑑賞したい作品のためならどこへでも行きたい。公共交通機関を使って。
30歳になるのだから、いい加減自分の欲望が何を求めているか分かりたいものだけれど、まだ答えは出てこない。もう寝よう。

出来事

訪問先の図書館の方から「あなたの国が大変なことになっている」と聞かされて初めて知った。
国際電話のかけ方をよく知らず、中央駅に行ったら公衆電話に日本語の記載があって、心の底からありがたく思った。
時差が8時間あるので、妻を深夜に叩き起こす羽目になってしまったが、震源地に住む妻の親族含め全員の無事が確認できた。
何となく怖い雰囲気だったはずの中央駅は、必死になった後で見回してみれば思ったほど怖くないことに気がついた。
キオスクに並ぶ各地元紙の一面は、文字が全然読めなくても、何の記事なのか、写真を見ればすぐ分かる。すべてが地震津波のこと。
何事もなく静まり返っている平和な日曜日のオスロから、自分の運命を観照している。

四日目

素泊まりということで宿での朝食はなし。宿の人に車で陸奥港の市場まで送ってもらった。縁日のように様々な露店が立並ぶ中を散策し、コーヒーを飲んだり、骨董屋を冷やかしたりした。それから屋内市場に行き、蛤の貝殻に詰められたウニや、白身赤身の魚、こりこりした歯ごたえのしそうな貝などを買い求め、市場の一角にあるイートインコーナーに陣取る。御飯とせんべい汁を合わせて購入し、新鮮な朝ごはんをいただいた。昨夜の居酒屋のとは違う味付けのせんべい汁だったが、おいしい。ぱくぱく御飯を食べていると、松岡修造がテレビ番組の撮影か何かでやってきて、市場のおばさま方にちやほやされていた。
電車が来るまで駅の周りを散歩する。古びた看板。それから電車に乗り、窓を開けて外を見る。冷房ではなく扇風機が風を送ってくる。クロスシートの電車。海と港町が見える。初めて見た景色だけど、子どものころから変わらない、自分にとって心地の良い情景を堪能することができた。電車は八戸へ。
八戸から新幹線で盛岡へ。ロビーにスターバックスが入っている今夜宿泊予定のホテルに荷物を預け、バスセンターまで歩きながら散策。途中でじゃじゃ麺の老舗らしき店を発見するも、行列があったので入らず。結局バスセンターに入っていた軽食屋でラーメンを食べた。ここにはせんべいや蜂蜜などを売る歴史のありそうな店が入っていて懐かしい感じがした。
ここからバスに乗って、八幡平市へ向かう。次第に天気が怪しくなってきた。八幡平にはサークルの先輩のご実家である酒造会社がある。結婚式の鏡開き等でお世話になったお礼も兼ねて一度訪問したかったというのが今回の旅の大きな目的の一つであった。会社の目の前のバス停で降りると、予想通りの歴史が刻まれた日本家屋が。そしてその隣りに新しい建物があった。先輩一家に暖かく迎えていただき、酒造りの現場を見学させてもらった。といっても、この時は酒造りの時期ではない。人がいないぶん、道具や機械をゆっくりじっくりと見ることができた。ふだん製品しか見る機会がないので、原料が製品へと作り上げられていく過程を知ると理解が変わってくる。と同時にこういう環境が身近にあったなら、日本酒に対して抱くイメージも変わっていただろうなと想像された。日本家屋のほうも見せてもらったが、長い歴史を感じる痕跡があちこちに残っていた。もともと古い建物が好きで、祖父母もそれなりの古さの家に住んでいたから親しみがあるけれども、ここまで古いと好きを通り越して恐れ多い感じである。古さに対する感覚も、上には上があるようだ。
既に外は台風が直撃しつつあり、豪雨。その中、先輩の運転する車で雫石のジェラート屋に連れて行ってもらった。おいしい。こんな雨の中、他にもお客さんがたくさんいるのがすごい。鷲田清一の話、先輩の母校の校風がすごかったという話など、旅先でここまで豊かなお話ができるということが嬉しく幸せなことだとしみじみ思った。
さらに盛岡まで送り届けてもらった上、今晩の予定である妻の元同級生との会食にまで参加してもらえることになった。元同級生は盛岡で働いている。かくして東北中の知り合いが盛岡の小料理屋に集い、楽しい宴が遅くまで繰り広げられた。もちろん宴のお酒は先輩の会社で造られた「わしの尾」であったことは言うまでもない。解散後は歩いてホテルまで戻り、そのまま酔いつぶれた。

三日目

旅館の朝食には、帆立貝の殻に味噌と卵と葱を入れて煮たものが出た。美味しいが、さらに味噌汁がついてきたので、使い分けに困った。弘前まで山を下るバスを待つ間、旅館の前のみやげ物屋で「ゆできみ」を買い求めて食べた。ここまで甘いとお菓子のようだ。行きつけの理容室スタッフの弘前出身の女性も、よくおやつとして食べていたという。
弘前に戻ったらまたロッカーに荷物を預け、街を散策する。前川國男の建築物を巡ろうということで、弘前市民病院で新聞とビン牛乳を買い、平屋建ての紀伊国屋書店に寄った後、木村産業研究所まで歩いた。近くに古道具屋があり、橙色の豆皿をとても安い値段で5枚買った。城下町だけあって、今でも骨董が旧家から供給されてくるらしい。古い建築がほかにもたくさんある。旧第五十九銀行本店だった青森銀行記念館に入り、長野県の八十二銀行の由来がもともと第六十三銀行だったところが第十九銀行と合併したことで数字を足しただけであり、もともとの第八十二銀行とは関係ないことを知った。それから街の中心近くにある弘南鉄道中央弘前駅を通り、すぐ近くにある弘前昇天教会をこっそり見学する。天井から紐がぶらさがっており、これで鐘を鳴らすようだ。街の中心にレンガと木で造られた教会と、私鉄の小さな駅が並んでいるのがうれしい光景だった。
理容室のスタッフにおいしいと教えてもらった定食屋で昼ごはんを食べた後、弘前城跡を散歩し、いかにも前川國男建築という市民会館をうろつくなどした。
弘前を経つ時刻が近づいたので駅に戻る。駅前には若者が多い。特急「つがる」で弘前から一気に青森を通過して八戸まで。建設中の新幹線の高架が窓から見えた。八戸で八戸線に乗り換える。八戸市街に近いのは、本八戸駅である。ここで降りて、市街へ。想像以上に大きな街だった。遅くまで宿附近へ行くバスが出ていることを確認し、屋台村らしき一帯へ。雨が降りそうな空だったが、たくさんの屋台にたくさんの客がいた。適当な店に入り、イカ刺しやせんべい汁を食べる。せんべい汁は相当に美味い。コンビニでもせんべい汁用のせんべいが売っていた。隣の屋台では店の女性店長らしき人の誕生日だとかで、大きな花束がたくさん飾られていた。客層がちょっと怖い感じだった。ケーキもたくさん余っていた。
屋台で飲み食いした後、さらにどうしても食べたかった八戸ラーメンを食べた。それからバスに乗り、今夜の宿へ向かう。住宅街の中にあるので、雨のぱらつく夜では場所がよくわからない。自転車に乗ったおじさんに遭遇したので、「このあたりに元々遊郭だったという古い旅館があるはずなんですが…」と聞くと、遊郭だったのはあのあたりだと教えてくれた。そちらに行ってみると確かに目的の宿があった。「新むつ旅館」、意匠が凝っていて、木造の渡り廊下があるなど、歓楽の場らしい派手な造りだが、時を経て説得力が増している感じだ。客はわれわれだけらしく、二十畳くらいある大きな部屋だった。遊郭時代の客の記録簿が無造作においてあって、どんな風貌の客が来て誰と遊んでいくら使ったかが全部記録してある。未成年もいた。だいたいの客がこの界隈の人のようだった。素泊まりということだったが、冷たいお茶と黄色いスイカをいただいた。窓を開け、扇風機を回し、日本の夏の夜を満喫しながら、就寝。

二日目

あけぼのの車内放送は夜の間行われず、翌朝秋田駅につくころから再開する。そのころに大体目が覚める。昨夜買ったパンを食べながら、テレビをつけると、「寅さん」シリーズのいずれかと、別の邦画との2チャンネルがそれぞれエンドレスリピートされていることがわかった。同行者はいずれも観た事があるという(寅さんではないほうは、「異人たちとの夏」という作品らしい)。テレビを消し、車窓を見たりまた寝たりを繰り返し、そのうちに降りるべき弘前駅に近づいた。
弘前について6分後に、乗り換える五能線が発車する。それまでに?コインロッカーに大きい荷物を放り込む?「津軽フリーパス」を買うという作業を済ませなければ面倒なことになる。二人で分担し、私はロッカーの仕事を荷った。改札を出てロッカーの表示サインを探し、2階にある改札から1階にエスカレータで降りてコインロッカーのある場所に至り、空いているロッカーを探す。この文章を入力している今、日付が変わって私は29歳になった。話は戻り、空いているロッカーがあったのであらかじめくずしてあった100円玉を4枚入れて鍵をかけた。そして降りてきたエスカレータを上り、2階にあるみどりの窓口で同行者と合流した。この時五能線発車まであと4分。ふたつある窓口がそれぞれ接客中であり、どちらかが終るのを待っている状況だった。あと4分であることを同行者に伝えると、それが職員にも聞こえたようで、裏から窓口の機械を動かして発券してくれた。とても助かった。すっかり身軽になって改札に戻り、五能線に乗り込んだ。ほどなく出発。津軽フリーパスは五能線にも使えるので、弘前で買っておけば家計にやさしい。時間があれば新聞も買いたかったが、その余裕はなかった。
弘前から五所川原まで乗る。五能線の五は五所川原、能は能代だと思われる。ここから乗り換える津軽鉄道の発車までには30分ほどあるので、朝ごはんを食べたい。五所川原の駅前には「平凡食堂」という駅前食堂がある。がそこにはいかず、同じく駅前にあるバスターミナルの建物に入ると、そば・うどん屋がある。小さなカウンターがあって、そこにすわって食べる。メニューの内容について尋ねるとむっとした表情で年配女性の店員が即答してきた。が機嫌が悪いわけではなく、そういう喋り方をする人のようだった。安心して天ぷらうどんを食べた。ターミナル内には売店もあり、せんべいや酢昆布のような品が並べられている。新聞も売っていたので「陸奥新報」を買った。
津軽鉄道で金木まで。車内にガイドが添乗していた。金木では斜陽館を見たほか、職場の同期に教えてもらった「離れ」にも行ってみた。ここでは痩せた長身の若い男性がガイドをしており、しみじみとした口調で、太宰の作品とこの建物との関係を分かりやすく教えてくれた。床の木細工をはじめ、技術がつぎ込まれた綺麗なつくりだった。津島家の力がうかがえる。
斜陽館から歩いて15分で金木駅の隣りの芦野公園駅につく。途中にスーパーマーケットがあり、土産ではない日用の商品が並んでいる。ブルーベリーが安いというので、夜に宿で食べるために購入した。芦野公園の入口には売店が立ち並んでおり、カキ氷などを売っていた。旧駅舎を利用した喫茶店に入り、馬肉のカレーを食べながら、次の電車を待った。けっこう辛かった。
芦野公園から五所川原に戻ると、接続する列車がリゾートしらかみで、指定席しかない。津軽フリーパスでは指定席に乗れない。少し考えたが時間を金で買うことにし、指定席を買った。コンパートメントでは中国人の親子と一緒になった。秋田から海をずっと見てきたからか、疲れて眠そうだった。
弘前まで戻り、市内を散策。以前来た時に新聞記者に取材を受けた旧図書館に行ったが、もう記者はいなかった。この街には日本家屋も洋館もその中間のようなものもたくさん古い建物があるので、どこから見るか迷っているうちに時間がなくなり、バスで駅に戻った。ロッカーから荷物を取り出して再びバスに乗り、岩木山の嶽温泉へ。雨が降りそうな天気。星が見えることを期待したが難しそうだ。バス停を降りてすぐのところにある旅館に泊った。岩木山の名物であるとうもろこしを期待したが夕飯には出てこなかった。夜になり星が見え始めたのでブルーベリーを食べながら眺めた。大学1年のサークル合宿@長野の夜に見た星空は、見ているそばから星がいくつも流れていくという初めての光景だったが、岩木山の夜は星の数こそ東京よりも多いけれど、流れ星を確認することはできなかった。視力が落ちているのも原因なのかもしれない。貸切状態のような白濁の温泉につかり、就寝。