長く感じられた日の記録

06:00

 最初に目覚めるのはいつも娘。6時30分まで起きようとしない親の横で、与えられた文机の上で塗り絵を始めようとするも、お気に入りの筆記具が見つからないので母に探してくれと小声でせがむ。それで妻が起こされ、娘と早朝から口論をはじめる。その横で寝たふりをしている。

 

06:30

 近くの農園で採取してきたブルーベリーで作ったジャムを混ぜたヨーグルトが食卓にのぼり、混ぜるのが上手だと自称する娘が三人分のヨーグルトを混ぜてまわる。

 

07:30

 デスクトップPCを置いてある部屋には冷房がなく、夏の間は全然居たくない。押し入れの中から文庫やら新書やらが溢れかえっていて誰も片付けない。PCで娘がお気に入りのPeppa Pigを視聴する横で、一カ月ぶりに床に散らばるものを整頓した。

 

09:00

 自転車で光が丘公園の体育館にプールの整理券をもらいに行く。9時から2時間刻みで整理券が配られており、目当ては13時の回だったが、ぎりぎりで2枚もらえた。隣の図書館で雑誌を少し立ち読みし、近くの喫茶店で一息つく。

 

11:00

 近くのスーパーで北海道フェアをやっていたので西山製麺の麺と玉ねぎともやしと妻が作っていた塩漬け豚の残りで味噌ラーメンを作る。ぜひコーンを入れてくれと言われていたのに自分が好きでないのですっかり忘れており妻に嫌味をいわれる。ラーメン丼を食器棚から取り出すときに不注意でぶつけて水差しの取ってにひびを入れてしまう。

 

12:00

 妻のiPhoneを娘がこっそり拝借してカメラをとったりメモで日記を書いたりする。フリック入力をすぐに会得するも、「ぷ」が何行かわからないなどいちいち聞いてくる。ぷうるたのしみと書いていた。ベランダで飼っているメダカはどんどん卵を産み、痩せた土に播いた種から豆がぐんぐん伸びている。

 

13:00

 浅い子ども用プールをはじからはじまで泳ぎ、大人用プールでもアームヘルパーを使って同じくはじまで完泳した。

 

15:00

 迎えに来た妻の自転車に乗ってすぐ娘は入眠。昼寝が長引くと夜寝なくなるので、家に着くなりMary Poppins Returnsのサウンドトラックを耳元で聞かせるなどして覚醒させた。妻と交代して暑い中光が丘公園に戻り、公園を2周半する。

 

17:00

 汗だくで帰宅し、既に風呂から上がっていた二人を追って体を洗い、夕食開始。水を入れずに米を炊き始め、気づいてすぐ色々対応した結果、悪くない食感のごはんが炊き上がったという。ラタトゥイユをカレーにしたもの、蒸したトウモロコシ、網の上で焼いた獅子唐辛子、第三のビール、昨日の残りの白ワイン(コノスル)。食後はバナナを餃子の皮で包んでオーブン焼きにしバニラアイスを添えたもの。娘はトウモロコシを1本分くらい食べた。

 

18:00

 公文の「こうさく」を2頁くらい作り、2個目のパラグライダーがくるくる回るのが面白く、椅子の上から何度も落として楽しんでいたが、椅子から降りるときに足をぶつけて泣く。

 

19:00

 絵本を数冊、中でも『スイミー』は2度読んで、予定通り消灯。30分後、ようやくおとなの時間が訪れた。

 

 

 

 

晴々とした気持ちに

年度末のある日の昼休み、国会の中にあるJTBで、ゴールデンウィークを避けての京都旅行の手配を済ませ、代金を支払って職場に戻る帰り道、携帯電話に着信があった。それはついにその時が来たことを告げる電話だった。落ち着いて妻に連絡してから、予定の調整を始める。せっかく取れた四条烏丸のホテルも、桂離宮京都御所の参観許可も、京都在住の友人夫妻との会食もすべてキャンセル。一年おきの歯の健診もキャンセル。サークルの友人が夏にロサンゼルスで挙げる結婚式にも、おそらく行けなくなるだろう。小さな予定についてはドタキャンの可能性を告げた上で維持しつつ、次の電話を待つことにした。

そして最初の電話から2週間が経過した新月の日に次の電話が来た。職場の人に迷惑をかけつつ休みをもらって、飛行機で迎えに行く。初めて降り立つ土地の初めての病院で、初めての、そして一生続く関係を築く人との出会い。そこから先は昼も夜もない。必要な技術を学び、拙いながらも実践する。そして鉄道を使っての帰京。病院のスタッフ、鉄道会社の職員、タクシーの運転手…数えきれない人のやさしさと親切に支えられた日々だった。役所に出向いて必要な手続をとるうち、いかに手厚い保護が私たちを守ってくれているかを感じた。自分のことは自分でやる、という当たり前のことがモントリオールではできず、多くの人に助けられて感謝の念でいっぱいだった。そして今回、日本でも多くの人に支えられていることを実感した。なんと素晴らしいことだろうか。誰が何と言おうと、私のこの社会に対する希望と信頼を否定することはできない。しかし大学生の時には、そうは思えなかったのも事実だ。こうしていつまでも勉強は続く。

寂しさと成長

モントリオールから戻って早5ヶ月。新しい住まいの周りには公園があり、銭湯があり、何より多くのラーメン屋がある。休みのたびに一軒ずつ試しているところ。ある日、そのうち一軒が突然の閉店。中年の夫婦がやっており、ほんの数日前に初訪問したばかりだった。つけ麺の大盛り無料だということで、頼んでいないのに勝手に大盛りになった。親切とおせっかいの真ん中のような接客だったが暖かみを感じていた。シャッターに貼られた紙には、急なことで、一人一人のお客さんにご挨拶したかったがそれも叶わないといった事が書かれていた。
孫の帰国を待っていてくれたかのように、祖父も昨月鬼籍に入った。よい時代に公務員人生を過ごした彼は、いつも笑っていた記憶がある。最後に会った時には意識があったがもう言葉を発することはなかった。ただ手を握りしめて、無事に留学を終えて帰国したこと、これまでの感謝の気持ちを伝えた。少し手を握る力が強くなった気がした。しばらく祖父と目をじっと見つめ合った。それから一月もしないうちに祖父は亡くなった。葬儀では安芸門徒の例にもれず「白骨の御文」が読み上げられる。朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。父方の祖父母が亡くなった時に比べて、沸き起こる悲しみが少ないことに気づいていた。少しずつ、外界の変化に自分が耐えられるように成長したとも言えるし、ただ感覚が鈍くなっただけとも言える。火葬後、骨壺からこぼれ落ちたかけらを拾い上げてまた口に入れた。
留学前と同じ部署に復帰した職場で人事の発表があり、年度末での退職者が示された。まだ若い人が幾人か卒業していく。もともと学界などへの転身が多い職場である。才能と実績をもって新たな道を歩む同世代を見ると動揺するし、別れの寂しさもある。しかしここでもその感覚は、以前より薄まったように思う。別れは悲しいものだが、別れは尽きないものだ。悲しさは尽きないものなのだ。
TEDでストレスは身体に影響を与えるが、それが悪影響ばかりというわけでもないという話を聞いた。悲しさは、私に何をさせようとしているのだろうか。まだ小さいときは悲しさに立ちすくみ、途方に暮れるだけだったが今は違う。お腹に力がこもり、鼓動が早くなる。顔も紅潮する。それは、平静を取り戻そうとして否定すべき身体の反応ではないのだ、ということだと理解した。
そんなことを考えて下赤塚の街を歩くと、課題に追われつつ興奮状態で過ごしたモントリオールに居たときの感覚が蘇った。少しは成長していたのだなと、実感した。

残酷な月

4月はあっという間に過ぎて行った。試験よりもレポート執筆のほうが向いていると思ってほとんどの科目をレポートによる評価のものにしたせいで、朝から晩までパソコンに向かう日々だった。気がつけば街を覆っていた雪は消えており、春が来ていた。

せめてもの気晴らしに、パソコンに向かう場所はあちこち変えていた。家と図書館に飽きたら街中にいくらでもある喫茶店を転々とする。この時期はどこでもパソコンに向き合う学生であふれている。さらに気分転換して、モントリオールから東に向かう夜行列車でもレポートを作成した。24時間弱の旅でハリファクスに着く。そこで数時間滞在し、すぐ折り返してまた24時間。往復ともゆったりとした一人掛けの座席を使えたのでよかった。電源もあるし、wifiが使える車両もあった。

モントリオールでの暮らしも9ヶ月が経過したところで、これまでに8人がはるばる訪ねてきてくれた。つい先週、両親もやってきた。これまで発見してきたこの街の良い所をさんざん案内したが、一月前まで雪が積もっていたとは思えないほど良い天気の中で山登りをしたりと、既に還暦を迎えた二人には過酷な行程だったかもしれない。

私たちでも気兼ねしすぎずに入れる老舗のビストロで親と道中最後の食事をした。仏語と英語がやかましく飛び交う席と席の間の狭い店で、いつものように日本語で親とあれこれ話した。父親は最近好調だという広島の球団の話を好み、母はただ息子たちが留学先で元気でいることが分かってよかったという話をした。しばらく離れて暮らしていたので会話のペースがうまく合わなかったが、ワインで皆の頭がゆるんだことにより不調和は解消されていった。最後に記念写真を店員にお願いして撮ってもらった。

ビストロの最寄り駅(Sherbrooke駅)まで両親を見送る途中、英語で議論するのはやっぱり難しくて、とうとう満足がいかないまま二学期が終ってしまったというような話を父にした。父は小学校のころ私がどのように国語の問題を解いていたかという思い出話をした。そうして駅に着き、武蔵小金井駅で別れるような感覚でお別れした。

駅から妻と歩いて家に帰る途中、リスがたくさん跳ね回っている公園を通りながら、両親との会話を反芻した。広島で生まれ育った私たちがモントリオールで会っても、話す内容、交わる感情は変わらない。でも彼らがわざわざここまで来てくれたという事実の後ろにある何かに思い当たり、身体の奥のほうが熱くなった。skypeでは伝えきれないものを受け取り、これからはもう少し頻繁に親に手紙を出そうと思った。家に帰る前に酔いは覚めていた。既に日は長くなっていて、午後九時でも薄明るいほどだった。

トムヤムラーメン

 秋学期最後の期末試験の朝、不意に友人の訃報を受ける。試験のプレッシャーと相まって、実感が沸かないまま必要な連絡をし、頭が整理できないまま試験に臨んだ。三時間半の間、持ち込んだノートパソコンに思いついたフレーズや判例や教科書の記載を少しアレンジした英文を打ち込んだ。終了後、友人たちと試験の手応えや冬休みの予定などについて雑談し、帰宅した。一足先に休みに入っていた妻が作ってくれたラザニアを食べ、試験中は断っていた久々の赤ワインで乾杯した。気がつくといつも使っている書き味のよいボールペンが見つからない。試験場に持って行ったのは覚えているが、どこを探しても家にない。翌日試験場に戻って探しても、事務掛に尋ねても結局見つからなかった。
 同じ年とは思えない豊富な「文化」を彼は持っていた。彼に連れていかれた店で食べたトムヤムラーメンは、ラーメンといえばサッポロ一番みそラーメンという田舎生まれの中学生には理解できない刺激的な味だった。魯肉飯も、生きた蛸の刺身も、本当のジンギスカンも、ひつじのたたきも、彼に教わった新しい味覚だった。彼のうちに遊びに行ったこともある。天井まで積み上がった本やその他。シーケンサスコットランドヤード、およそ私が訪ねたことのある一般的ご家庭からはかけ離れたように見える住居で、彼は育ったのだと納得した。「文化」の豊かさを体現する彼が高校の文化祭実行委員長を務めたことも当然の成り行きのように思われた。閉会式で彼が各部門の責任者に感謝状を手渡しながら、大きな、はっきりとした、とても心のこもった感謝の言葉をひとりひとりに伝えていたのを印象深く覚えている。彼がそのような素直な気持ちを、率直に表現したのは珍しかったからだ。人の本音を知りたがる私にとっては、あの光景が彼の気質を推察する鍵だった。
 大学に進んでからは、数ヶ月に一度会ってはあいかわらず新しい味覚を教えてくれる場所に連れていってもらったりしていた。恒例の忘年会が開けるような居心地の良い店を教えてくれたのも彼だ。少しずつ皆が年を経ていくのをゆっくり共有する場としての忘年会は、永遠に続くように思っていた。それが不意にそうではないことを思い知る。私の経験の一部は確実に彼によって与えられてきたのに、これからはもう与えられることはなくなってしまった。とはいえ私は彼に魚をもらうのではなく、魚の釣り方を教わらなければいけない。自分の経験くらい自分で豊かにしなければいけない。しかし、彼の魚の釣り方をマスターできたとしても、彼がいなくなったことの寂しさは埋め合わせられないだろう。なぜ寂しいのだろうか。しみじみと寂しい。

寛容であるための努力

日本を離れて1週間経った。3週間北欧に出張したことを思えばまだどうということもない。大学に行って学生証をもらい、家探しをして、携帯電話の契約をした。相手の意見をまず聞き出そうとする昔からの癖が抜けないので、家も、携帯のプランも、"It's up to you."と言われてばかりということになる。
モントリオールの中心部は古い石造りの建物と現代的ビルディングが仲良く林立している。公用語はフランス語で、街の標識はすべてフランス語だが、拙い英語で話しかけるとみんなすぐ英語で対応してくれる。この街も、街の人も、やってくる人に"It's up to you."と言えるだけの余裕があり、相手に合わせて臨機応変に対応できる能力があるということだろう。この街では、相手に合わせてもらってばかりで申し訳ない気持ちになる。あと1年の間に、私もその能力をできるだけ伸ばしたいと思う。

前回日記を書いてから2年も経っていた。備忘のために記憶をさかのぼる。
2013年8月 4年間住み慣れた小金井の家を引き払う。その後広島に帰り、友人と会って留学の心得を聞き出す。
2013年7月 小金井市民プールに週一回通い出す。
2013年5月 京都に3泊4日の旅。街歩きがとても面白く、関西転勤が楽しみになった。食べ歩き。
2012年8月 伊勢旅行、のはずが、近江八幡/名古屋/松本/軽井沢を経由する旅になった。伊勢と松本のビストロがおいしかった。
2011年末〜翌正月 台湾旅行。台湾に通暁した友人に事前レクチャーを受け、大晦日の電車終夜運転を利用して早朝の羽田から旅立った。食べ歩き。体重が劇的に増加した。

松本へ

 中央線のいいところは、高尾と東京を往復するオレンジの列車に混じって、線路のずっと先まで行く列車が走っているところ。いつもは通勤や買物に使うだけの列車だが、小さな旅にも使えるという自由がある。
 午後6時過ぎ、きれいになった駅構内のお店で、缶ビール、缶ワイン(!)、鳥の唐揚げ、握り寿司、ポテトチップス、チョコレート、チーズなどを買い込み、いつもは立読みしかしないような雑誌も買い、ホームに降りて列車を待つ。 西行きの特急列車が時間通りにやってきた。乗り込んで荷物を棚に載せ、後ろの席の乗客にひとこと断わってから座席を少し傾ける。日が暮れてしまったので車窓の景色ももう見えない。買い込んだ飲食物を気ままに口に入れながら、仕事の話、小さいときの自分の話などをする。酒が神経を緩やかにしてゆく。昔は酒が神経を緩ませるのに対抗して、いくら飲んでも平常心を保つことが美徳だと思っていたが、もうそんなことはなくなってしまった。
 列車は、大月を通過。ここから行ける河口湖・山中湖は中高の部活、大学のサークルで何度も合宿した。小淵沢を通過。家族でよくスキーに来たからか、時々意味もなく行きたくなるところ。ほうとう弁当は今も売っているだろうか。
 午後9時過ぎ、列車は終点の松本に到着。林檎の被り物をしている緑色の熊が出迎える。東京より少し寒い。改札を出てすぐにスタバがあったので、コーヒーを買った。宿までは距離があるのでタクシーを使おうかと思ったが、まだバスが走っていることが分かった。バスセンターはスーパーと併設されていて、おみやげや本などが手に入る。観光客と地元の若者たちに混じってバスに乗り、松本城近くの中心部まで行った。
 バス停を降りるとすぐにホテル。倉敷で泊ったところに似た、古さを逆手にとったホテル。なぜか大浴場もある。荷物を置き、夜の街を散歩にでかける。
 ホテルの前には立ち飲み酒場。とても安くて有名らしいが、10時で終わってしまい、入るタイミングを逸した。隣には90年近くやっているパン屋さん。ここも土日祝日が休みで縁がなかった。夜10時なのにも関わらず、店の奥には明かりがついており、クラシック音楽が鳴っていた。
 市内を流れる女鳥羽川沿いには、和洋の飲み屋がいくつか開いていた。まばらに人が出歩いている。紫や青の薄明かりが差し込む路地の入口に「彗星倶楽部」と書かれた扉の店があった。隣では遅くまでのれんを掲げたうどん屋もあった。
 結局バスで通りかかった通りで見つけたアイリッシュパブに入り、1パイントのビールを飲み、キューピーイタリアンテイスティドレッシングであろう味のついたサラダとビーフジャーキーを食べた。隣りの席はドイツ人の二人組だった。
 三連休の初日だから明日も明後日も休み、そんな明るい未来に満ちた夜に、かつての城下町にひしめく店を見ながら、川沿いの道を歩いている。せっかく旅先にいるのに、きっと明日はチェックアウトぎりぎりまで寝ているのだろう。今年はさんざん海外に行ったが、あまりの物珍しさにあちこち行き過ぎた。それに比べて、いまのこの時間は、この上なく贅沢なひとときだと感じた。30歳になって動物的力が喪われていく一方、残る人生の使い方くらいは少しずつ学んでいるのかもしれない。何も得ず、ただ余韻だけが、半月経った今でも消えずにいる。